田辺城
織田信長の命により守護大名の一色氏を打ち、丹後を制圧した細川藤孝(幽斎)によって天正8年(1580)に築城された城です。
天正10年(1582)には細川忠興が城主となり、父藤孝は宮津城に移りその後隠居します。 慶長5年(1600)関が原の合戦前、
東軍の家康側についた田辺城は西軍石田光成の軍勢1万5千に城を包囲されますが、出兵していた忠興に代わり、居城の宮津城を
焼き払った藤孝が僅か500の軍勢で城に籠城、西軍の攻撃に耐えました。 古今伝授の伝承者であった藤孝を憂慮した後陽成天皇
の勅願により、籠城戦は終結、関が原の合戦2日前。 西軍の戦力を長期に渡って釘付けにして東軍勝利の一因になったと言われる。
その後、京極家4代、牧野家10代の居城として明治まで続いたが、版籍奉還により廃城となり、城郭は取り壊され、堀も埋め戻された。
当時の城壁の石積みや心種園と、近年建設された二層櫓や城門を中心に舞鶴公園として整備され、市民の憩いの場となっています。
伊佐津川と高野川に囲まれた平城で、別名「舞鶴城」(ぶかくじょう)と呼ばれた事が現在の舞鶴市の地名の由来になっています。
田辺城の地図は  田辺城の情報は 

田辺城資料館
平成4年(1997)に、二条城や宮津城の大手門を参考に復興された城門の2階は田辺城資料館になっています。 細川藤孝(幽斎)を
始めとして、細川家、京極家、牧野家、の歴代の城主に関わる資料等を元に田辺城や城下町の歴史をパネルや模型で展示してあります。
(見学無料、毎週月曜(祝日の場合その翌々日)、祝日の翌日、年末年始は休館)


彰古館
昭和15年(1940)、篤志家の寄付により建設された二層櫓の内部には糸井文庫の錦絵の版画等が展示されています。(見学無料)

心種園 細川ガラシャ
 古も今もかはらぬ
     世の中に
   心の種を残す言の葉

田辺籠城戦の中、決死の覚悟
を決めた細川幽斎は、古今伝授
を行っていた後陽成天皇
の弟
智仁親王に継承者を絶やさない
ために、古今伝授証明書を書き
送りしました。その書に添えられて
いたのが上の歌です。
城内の心種園にて詠まれたと
伝わり、句碑が建っています。

 散りぬべき時知りてこそ
        世の中の
   花も花とて人も人とて
 (細川玉(ガラシャ)辞世の歌)
 織田信長のすすめにより幽斎の
 嫡男忠興に嫁いだのは、明智光
 秀の娘、玉でした。本能寺の変
 の後、光秀に誘われた忠興は
 玉と離縁、幽閉して光秀の誘い
 を断った。関が原の戦いの折は
 西軍の人質になるのを拒否して
 自害したとも伝わる。
 
写真は細川家の縁で田辺城を
 訪問された細川元総理ご夫妻。


 もどる